津田大介さんのお話を聞きにTALKSHOW_LIVE001へ行ってきました

面白かったです。津田さんのお話を聞くのは初めてだったのですが、テンポいいし、笑いもあるし、ちゃんとためにもなる。

津田さん自身によるTsudaるの定義の解説もありました。津田さんが「こんないい定義がありました」と紹介していたのが以下の@trickenさんのもの。

@k_wizard @trickenによる「tsudaる」定義:「社会問題上重要度の高いカンファレンスにオンライン状態で出席し、現場で発表された発言の140字要約postをTwitterのTimeline上に送り続ける行為。津田大介(@tsuda)が率先して行うことから附いた俗語

tsudaるにあたって、著作権にからんだ注意点なんかも勉強になりました。自分なりにまとめると、こんな感じでしょうか。

  • tsudaる前に主催者やスピーカーに事前に承諾を取るのが一番確実
  • フェアユースで押し切るという考え方もある(有料の講演会などは厳しい)
  • 報道というスタンスを保つことも重要(いつ、どこで、誰がした発言か?)

当然、ハッシュタグ#TSL001で、Tsudaりが行われていたのですが、このときの臨場感あるしゃべりはイベントを主催した松村さんたちのおかげてPodcastで聞くことができるよになっています。興味のあるかたは、ぜひ、聞いてみてください。


026:「tsudaる」の歴史


参照:
trikenさんの「tsudaる」の定義 http://twitter.com/tricken/statuses/2029353828
RENEGADE COPYRIGHT WAVE 6/18 http://tsuda.tumblr.com/post/125774703/tricken-tsuda
「@tricken 「tsudaる」の定義が紹介されてる様子です。」(id:twitterさんのfotolifeより)
@tricken 「tsudaる」の定義が紹介されてる様子です。

日本電子出版協会の著作権セミナー(第2回)参加

第2回目からは出版契約とか出版権について、著作権法の条文の読み合わせながらの座学スタート。監修者と著者だとか、著者とゴーストライターの関係の事例解説は、これまでちゃんと考えたことがなかったので、なかなか興味深かったです。

国立情報学研究所(NII)オープンハウス、2日目

2日目は午後に行われたワークショップ「ひらめき、ひろがる、知の可能性(かたち) - CiNiiリニューアルとウェブAPIコンテスト -」に参加。コーディネーターはAcademic Resource Guide(ARG)の岡本真さん


自分が学生だったときには、こんな論文データベースはなかったなぁ。


質疑応答で、「データベースのログが公開されていたら、人気のある研究テーマや研究者が分かっていいのではないか?」という発言があったんだけど(すみません、発言者のお名前は聞き取れませんでした)、上手くいけば、学術系の本を出版企画を立てるときに使えるデータが取り出せる可能性もありますね。


あと、APIコンテストの参加者への、岡本さんの呼びかけに、とても共感しました。「インターネットサービスを作り上げるときにも、専門が異なるプロジェクトチームのメンバーが意見をぶつけ合って、議論するなかで、いいものができる。ぜひ、チームを組んで参加して欲しい」といった趣旨の呼びかけだったのですが、これを聞いて、岡本さん良いこと言うなあと思いました。


そんな岡本さん主催のARGカフェには、いつか参加してみたいです、なかなかチャンスが無いですが。



参考:ワークショップ「ひらめき、ひろがる、知の可能性(かたち):CiNiiリニューアルとウェブAPIコンテスト」で司会


MITメディアラボの石井裕さんの講演会に行ってきた

マサチューセッツ工科大学のメディアラボから石井裕さんが、国立情報学研究所(NII)のオープンハウスで基調講演をするというので、行ってきました。


この日もTwitterでTsudaってらっしゃる方がいて、このポストの後を追いかけていけば、だいたい流れが追えそうです。また、後日、映像がNIIのサイトでアップされるようです。


さてさて、僕は学生時代にコンピューターを使ったコラボレーションに関心があって、最近、Twitterを使って行われているシンポジウムのライブレポートに近いことを、当時のマッキントッシュを使ってプリミティブな形で試みていました。そんな訳で、NTTのヒューマンインターフェース研時代にClearboardを発表されていた石井裕さんは、当時から憧れの存在で、今日は、とてもミーハーの気持ちでの参加でした。


実際、MITメディアラボのミッションから始まり、タンジブル・ビット(=触れられる情報)という概念の解説、過去から最近の研究成果の紹介、そして研究者として自身の哲学や生き様を語るエンディングまでを、“速射砲”のように畳み掛ける語り口で駆け抜ける、生の石井裕さんのトークライブに、大満足の一日となりました。


そんな盛りだくさんのトピックのなかで、石井裕さんが、紙の本が削ぎ落とした情報や、アナログの本だから持ちえた特性について話されたのですが、それは、最近の僕の関心とも奇妙に一致していて、とても印象に残りました。


石井裕さんは若い頃はユースホステルを頻繁に利用するホステラーで、リュックに文庫本を何冊も詰め込んでは、貧乏旅行に出かけていたそうです。旅の合間に、いくつもの文学作品に出会ったそうですが、宮沢賢治は特に好きな作者で、なかでも「永訣の朝」などは、彼にとって、読んで心を動かされることの原体験となった作品だということでした。その時は、文庫で読むことが当たり前の自明のことで、特に疑問に感じることもなかったのですが、彼がMITメディアラボにヘッドハントされてアメリカに旅立つ前にに、どうしても、立ち寄っておきたくなって、あわただしい時期に訪ねた、花巻市宮沢賢治記念館、そこで、石井さんは賢治の自筆原稿に出会った。その出会いは、衝撃だったそうです。


宮沢賢治の自筆原稿には、活字になって印刷された文庫本からは消し去られてしまった、書いては消し、書いては消しのプロセスが生々しく存在していた。妹との別離に直面した賢治の感情が、文字の振るえ具合とか、筆圧みたいなもののなかに、生々しく残っていた。そこから生まれる生々しい感動があるのに、なぜ、私たちは、それをこぎれいな明朝体の活字フォントになることを許してしまったのか? なぜ、苦悩のプロセスを消してしまったのか。


その一方で、石井裕さんは、当時、旅の最中に携帯していた文庫本を、今でも捨てられずに大切に取っている。それはアナログの本当の本だったから、書き込みが可能だったし、汗のシミという若き日の自分自身の痕跡もしっかりと残っている。そういった若き日の存在が刻み込まれたものだから、捨てられないと。


この先、電子出版に関わることが多くなりそうな僕としては、この話を聞いて、ある種のシンクロニシティを感じずにはいられず、そういった意味で、今日の石井裕さんの講演会には、当初、期待していた、単なるセンチメンタル・ジャーニー以上の意味が、僕にはあったなと思いました。



ところで、石井裕さんのトークのなかで「プレイヤー・ピアノ」というキーワードが頻繁に使われていました。聞いているときは、そのコンテクストが分からなかったので、帰ってきてから、ネットで検索してみたら、カート・ヴォネガット・ジュニアの小説にそんなタイトルの作品があったんですね。僕はヴォネガットの『プレイヤー・ピアノ』は読んでいないので確かなことは言えないのですが、石井さんはそれとは独立した文脈で語っていて、“Ghostly Presence”(こちらも講演会のなかでの頻出ワードでした)なんかと同じような意味合いで、どちらかと言えば、積極的な意味合いを込めて、使っているように感じたのですが、どうでしょうか。



石井裕さんの講演は、宮沢賢治に後に、若山牧水の詩も「是非、読んでください!」と、更にもうひとつ文学話が続くのですが、それはまた、別の話。

プロフェッショナル 仕事の流儀 (13)

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我らクレイジー☆エンジニア主義 (講談社BIZ)

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永訣の朝―宮沢賢治詩集 (美しい日本の詩歌 11)

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若山牧水歌集 (岩波文庫)

若山牧水歌集 (岩波文庫)

プレイヤー・ピアノ (ハヤカワ文庫SF)

プレイヤー・ピアノ (ハヤカワ文庫SF)

DNPのブックオフ買収をGoogle Book Searchに繋いでみる

書籍関連の気になるニュースが2件あったので、クリッピング


持っている本を登録すると、Googleで本の中身が検索できる

この入力の手間に対応するため、バーコードスキャナを使ってGoogle Book Searchのライブラリに本を登録することができるようになった。タイトルを入力して本を登録する方が早いのではないかとも思う。しかしISBNを手入力するよりは明らかに早いし、この方法なら大量の書籍タイトルをらくに登録することができる。

しかし、直接ISBNを入力するにせよ、バーコードスキャナを使にせよ、登録作業は億劫で煩雑なので、誰もが便利に使えるサービスとして普及するには、ハードルが高いような気がする。購入した本は、紙に印刷された書籍でもKindleなどのリーダーで購入した電子書籍でも、手間を意識することなく自動的に登録できるくらいの仕掛けが欲しいと、私は思う。そのためには、紙の書籍にもRFタグが組み込まれていて、本棚や部屋そのものにセンサーが組み込まれていれば良いわけだが、もしかしたら、無線ICタグが組み込まれた書籍の方は、これとは違う思惑から、日本国内で流通するようになるかもしれないなと感じたのが、下の記事。


ブックオフ“改善計画” DNPと出版大手の思惑

例えば、1冊ごとにICタグ(電子荷札)をはり付け、中古本市場を含め、その流れを監視。「得られたデータを基に返本率の改善策を練る」(森野常務)という構想を描く。ブックオフをその“実験場”として組み込めば、データの精度は格段に高まり、有効な対策が打ち出せる。

CSCWの論文なんかで10年以上前から提案されてきた書斎やオフィスが実現される日が来るのと、主要な書籍が電子出版に移行する日が来るのと、どちらが早いか分からないけれど、同じ本を2回も3回も買っちゃうようなことがなくなる日が、遠からじ、来るんじゃないかということを、2つの記事を眺めながら思ったのでした。


tips - Google Book Search のマイライブラリ登録はASIN直でOK

別にGoogleでなくてもいいから、書籍をデジタル検索できるようにしてもらいたいものだ。

ちなみに、私の理解が正しければ、国立国会図書館がこの作業に先鞭を付けてくれるはずで、あとは、デジタイズされたデータが、ネットを介して、一般ユーザーに公開されるかどうかだけが問題になると思うのだけど、それはまた別の話。

電脳コイルの磯光雄さんの話をドコモのシンポジウムで聞いてきた

ドコモが主催するモバイル社会研究所のシンポジウム 〜ユースカルチャーの生態系〜を見に行ってきました。目的は電脳コイル磯光雄さんだったのですが、他のパネラーの方もお話もなかなかおもしろかったです。

ちなみに、会場でTsudaってくださった方々がいたので、Twitterで#msriを検索するとフォローできます。

以下のメモは、自分のアナログノートから、磯さんの発言のみを抜粋して、適宜自分なりの補足を入れながら(ふくらませながら)まとめてみました。まだ、タイポいっぱいあるかもですが、ご容赦ください。

  • (仮想現実とか拡張現実とか言われるけれど、自分たちは)電脳コイルで描いた世界は、Mixed Realityと呼んでた。現実世界に情報を重ね合わせて表示する“めがね”、その“めがね”をこどもたちが使い倒して遊んでいる。それは新しい世界というより、既に、普段から、もうそうゆう状態になっているものとして描いていた。“サッチー”なんかが出てきて、子供たちがびっくりしてくれないかなって思って作ったけど、予想通りにというか、技術者の方たちが食いついてきた。
  • 電脳コイルを作ったことで、いろいろ調べ物をしているときに資料として読んだ拡張現実を研究する大学の先生なんかとお会いして、話をする機会ができたのだけど、そうゆう研究者の方とお話してきたなかで、仮想現実というのは、実は、数万年前からあったのではないかと、思うようになりました。
  • そもそも人間が環境を知覚するところから既に仮想現実で、視覚は眼球が捉えた2Dの世界を、視差を利用して3Dに変換しているわけで、そうゆう意味では、人間の認識や知覚の発生とともに、仮想現実はあったと言えるわけで。電気的なそれ(仮想現実)を私たちが上手く受け入れられるのは、人間の脳があらかじめそのような仕組みを持っているからなんです。「マトリックス」的な作品や技術が出てきて、そういった発想が出てきたのではなく、その逆なんだと。
  • (技術やサービスだけでなく、ゲームやコンテンツもプラットフォームになり得るというお話でしたが)昔のアニメはプラットフォームとして機能していたなと思うんです。キー局があり、本放送があり、TVの前で正座してアニメが始まるのを待っていた。でも、今は、いろんな方法で後から追いつける。アニメにおいて、TV局はもうプラットフォームではなくなっているように感じます。提供者としての(マスメディアとしての)プラットフォームは、いつまで在るのか? プラットフォームから外れるには(外れてInovatorやクリエーターとして生きるには)どうしたらいいのか? (そういった問いが必要なんじゃなないでしょうか。)
  • (若者の定義がパネラーや会場のあいだで共有されるべきという話ですが)例えば、選挙権が与えられるまでが“若者”でしょうか。モスキート音が聞こえるあいだは“若者”とか(笑)自分が若者のときは、メディアが語る若者像からは疎外されている感じがしていて、自分の時代だと「竹の子族」とかあったようなのですが、僕はそれを知って驚愕してた。というように、若者らしくない若者でした。昔の元服というのも人為的に設定されたもので、大人(と子供の境界線)というのは、人為的に設定なしには存在しないのではないでしょうか。
  • (世代によって技術やメディアの基盤が異なり、通常は高校時代までにメディア・アイデンティティは確立される傾向にあるため、そのときゲームやネットを体験したかどうかが、そうゆうアイデンティティは大人になっても消えないというという話でしたが)そうゆうことを、意図してやっている人もいます。例えば、アニメに登場するメカの光り方には、世代によって違いがある。昔の金ぴかは、ナミナミとしたハイライトで、それが若い世代の、というは自分たちの世代のアニメーターには評判が悪かったんですが、これは昔の電化製品やバイクなんかのメカがそうゆう光り方をしていて、その頃の世代の感覚に基づいた表現だったわけだけど、われわれの世代にはそれが違和感があって、自分たちが描くときにはラインでハイライトを入れたんです。それは、その次の世代は、ビデオデッキ世代で、その光沢感で(メディア・アイデンティティのようなものが)形作られたからだと思うんです。そうして、ジェネレーションが変わると、若い世代の感覚にあわせようとするんですが、どうしても違和感が残る。
  • 阿久悠さんが「今の歌謡曲はつまらなくなった。昔はプッシュフォンがなかったから、ダイアルが戻るまでのあいだに情緒を十分込めることができたが、プッシュフォンではそれができない」といった主旨のことを言われていました。でも、本当は、メールだって、送ったのに、返信がすぐ来ないとか、あるわけなので。
  • (クリエーターになるような人は、人と違ったことをしたい、違っていても恐れないという話でしたが)僕もそうだった。周囲でやっていることは、楽しくなくて、やりたくなかった。イノベーター的に育っていくということを考えると、それは世代論で区分できるのかなと思う。
  • イノベーターなのかアーリー・アダプターと呼ぶのか分からないけれど、そうじゃない人は、何かを作り出していく側にはなれないし、ならない。それに世代は関係ない。
  • (昔のプラットフォーム、マスTVの時代は、それがおもしろくなければ退場するしかなかったが、プラットフォームがデジタル化することで、アマチュアがハックできるようになった、フミエやダイチがめがねでそうしていたようにという話でしたが)フミエやダイチは、「週間めがね」を読んで、自分から工夫していました。ちなみに、企画書では、フミエはヤサコに追随するだけの意志の薄い子という設定でした。
  • プラットフォームは“どこ”までと定義しているんだろうか? マスメディアとの対比で語られる一方、ポケモン遊戯王などのゲームがプラットフォームだということも分かった。マスとプラットフォームはどう見分けられるのか?
  • (MADなどのRemixはコミュニケーションで、会話と同じであるならば、それは作品としては評価できないという話でしたが)作っている者としては、踏み込みにくいものがあります。二次創作の問題があるので。自分は元ネタを知らなくても見られるようにしてきた。
  • オタクというのは引用元を探す人で、監督や声優の過去の経験など裏話を話す人が好きな人。シミュラークルポストモダンの文脈ですし、Remixにも近いものを感じる。
  • プラットフォームにしろマスにしろ、どこまでを1次創作と定義するか。周辺で感想を言い合うところまでを含めるのか。ブリトニー・スフィアーズの例は、1次創作だと言える。なぜなら2次創作があるから。同人誌の同人誌は出ない、というのが今の仮説。電脳コイルはもちろん1次創作として作った。
  • 電脳コイルはパソコンベースだった。PC8001、Z80、マシン後書いていた。ケータイは、電脳コイルの制作中に、必要があって持ったくらい。

参考リンク
-モバイル社会シンポジウム 〜ユースカルチャーの生態系〜



以上、第1部のパネルセッションの磯さんの発言だけを書き出してみました。ライブでTsudaるのと比べると、相当時差があってスローな感じがしますね。

仮想現実は人間の歴史とともに古いという冒頭の話を聞いて、グレゴリー・ベイトソンが言及していた「逆さめがね」の実験とか思い出したりしました(「めがね」つながりないのかな?)あと、オリジナルのキャラクター設定やアニメーターの世代論はテンション上がったような気がします。

第1部で提起された問題は、第2部に引き継がれ、濱野智史さんが「N字創作」や「つながりの社会性」なんてキーワードでがしがし切っていき、「1次創作はプロによる作品である必要が無い、むしろ下手なくらいな方がみんなが応援してくれる(創作の連鎖が広がる)という、プロにとっては歯がゆい時代になる」といったところまで語られていましたが、それはまた、別の話。

日本電子出版協会の著作権セミナー第1回「改正著作権法解説」(全5回)に参加

講師を務める松田政行弁護士のコメントを備忘録的にメモしておきます。

松田弁護士自身の最後のまとめコメントが非常に良くまとまっていたので、それをベースにしていますが、適宜、自分の言葉でまとめ直しています。

  • 今回の改正で今までの宿題を一気に片付けた感があるが、実務はもっと先に進んでしまっている
    • 権利者が不明な場合の裁定制度が簡素化されたが、NHKはオンデマンド配信に必要な演者の許諾確認作業を、CPRA(芸団協 実演家著作隣接権センター)一任する方式をスタート。CPRAは実際にはそんなに頑張って探さない(笑)何人か申請してきた人に支払っているけれど、これまでのところ問題は起きていない
      • 北欧ではすでに条文化されているが、日本ではビジネスの必要上から生み出された(北欧の事例を参考にした訳ではないとのこと)
    • 国会図書館では新刊図書の電子化を権利者の許諾を得ずに行うことが適法になったが、Google Book Searchの和解成立で、権利の切れた書籍だけだが、商業利用への道が開けてしまった。
      • 国会図書館で電子化された書籍データは、各地の図書館の端末で閲覧可能とするところまで視野に入っている。が、そこまで来たら、ネット経由で自宅からも利用だ来たら便利だと思わないだろうか?
      • 新刊を許諾なく電子化できるという点では、この改正はGoogle Book Searchより進んでいるかもしれない。電子化にはコストがかかるが、出版社が国会図書館にデータで納品することはありえないだろうか? 国内書籍に関してはGoogleではなく、国会図書館がハブになる可能性はないだろうか。
  • 著作権法に、世の中の矛盾が最初に(もしくは先鋭的に)表出してきているのではないか。
    • コンテンツビジネス振興という国策があるが、東大の先生が考えているように、法律を変えればそのようなビジネスが生まれる(ネット法派の主張)かどうかは疑問
    • ビジネスモデルを確立していきながら、広く関係者で協議しながら著作権について議論していく必要がある必要がある。フェアユースなんかも含めて。上から法律を変えて守らせようとしてもうまくいかない。なぜなら、文化だから


改正の具体的な内容については、割愛しました。ネット上では、ダウンロード違法化の文脈で語られることが多かったと思いますが、国会図書館Google Book Searchの話は、なかなか刺激的でした。Google Book Searchの和解については、アップデートがあれば今後も言及していくということでした。


話題のTwitter実況中継してみたかったんですが、"Tsudaる"のに適当なノートPCが無いのであきらめました。配布された紙の資料(A4)が入る鞄も持っていなくて、いろいろ足りないものがあることにも気付いた久しぶりのセミナー参加でした。


参照リンク